(調整中)
京都大学公共政策大学院では、令和2年度から建林正彦教授が新しく院長に着任されました。
院長に就任されて1年が経過したことを期に、新型コロナウイルスへの対応に追われた1年を振り返っていただくとともに、ご専門の政治学についてもお話を伺いました。
(聞き手: 松山祐輔(10期) 編集: 山科潤子(8期))
2021年4月13日掲載
◇院長に着任され、約1年が経過しました。令和2年度は新型コロナウイルスへの対応に追われたかと思いますが、どのような1年でしたか?
令和2年4月から公共政策大学院の院長となりましたが、いきなり休講措置への対応という大きな課題に直面しました。
休講への対応を検討するための教授会を、そもそもどう開催するかという点から検討が必要となり、法学研究科の動きを参考にしながら、早期にオンラインでの会議開催に移行しました。
授業実施についても、オンライン授業ができるかどうか、新型コロナウイルスの感染拡大が表面化してきた3月下旬から他の先生と実験を重ねながら検討を始めました。
今振り返ってみても慌ただしく、様々な課題への対応を迫られたように記憶しています。
学生に対しては、4月上旬にオンラインで履修指導を行うことができ、PCの画面を通じてではありますが、学生ひとりひとりの顔を見ることができました。
それ以外の教育活動については一旦止まりましたが、その期間中もいずれは対面とオンラインの両面での授業へ移行することを見越して、いわゆるハイブリッド型授業の検討を行いました。
特に音響対策が喫緊の課題であることが分かりましたので、音響設備を早めに調達するとともに、年度末には、公共第1教室、第1RPGルーム、第2RPGルームの改修を行いました。
前期授業についてはひとまずオンラインで実施した所ですが、公共政策大学院は受講者が少人数の科目が多いこともあり、後期授業に向けて、対面でできる講義はできるだけ対面で実施したい旨の要望は伝えていきました。一方で学生の中には、後期にもオンライン講義を希望する声がありましたので、ハイブリット型授業への対応も行いました。冬場に入ると新しい講義形態に慣れてきた事もあり、私の担当講義でも感染状況に合わせて対面からオンラインへの切替えを行いました。
自習室の運用については、前期の後半頃からシフト制を導入し、日毎に利用できる学生を決めることで、自習室内が密集空間にならないよう配慮しました。ただ、利用できる日が予め決まっている事と、オンライン講義も多く学生が毎日大学に来る訳ではないという事もあり、例年に比べ利用者は少なかったようです。
自主活動も含め、できるだけ早い段階で活動の制限を解除できるようにしたものの、これまでに比べると学生と交流する機会が極めて少なくなってしまいました。
◇先生のご専門は政治学ですが、行政や政治の動きが大きくクローズアップされた1年だったかと思います。
様々な場面での評価のとおり、行政機関はこのコロナ禍にうまく対応できていないと思います。
日本のリーダーシップは強まったと思いますが、リーダーシップが強まることと、問題に適切に対応できたかは別の問題です。リーダーシップの強化により、リーダーが考える対策が実行できる状態になっていますが、どのような判断を下すかという話と、その対策が適切かという話は切り分けて考える必要があります。
象徴的だったのは、新型インフルエンザ対策特別措置法(特措法)の改正に向けた動きです。
1回目の緊急事態宣言では特措法が強制力を持たないことが問題となり、知事側から改正に向けた要望が上がりました。自民党が衆参両院で圧倒的な議員数を保有していたことを踏まえると、早めのタイミングで特措法を改正する事もできました。しかし、そうしないまま安倍政権は交代して、令和3年2月3日にようやく特措法の改正案が成立した所です。
リーダーシップが強化される中での判断は、同時にその責任も増大します。そのため、意思決定が先延ばしされる結果に繋がったと言えるでしょう。
また、省庁側も先読みができていないと感じることが多いです。平常時と異なる環境に置かれた際、その対応面に弱点がある事が表面化したのではないでしょうか。
そしてこの点は、公共政策大学院の存在意義にも関連する問題だと考えています。
私は、あらかじめ決まった答えの無い問題にどう対応するかをトレーニングする事にこそ、公共政策大学院の価値があると考えています。これは本院の設立趣旨そのものですが、例えば地球環境問題や新型ウィルスなどの簡単な正解の無い問いに対して、真正面から向き合い、答えを見つけられるかということが重要だと思います。
法律のみをベースにした動き方をすると、法律の上で現在何ができるか、今後何をできるようにするかという面にどうしても焦点が当たると思います。ですが、そうした前例踏襲主義では、そもそも社会に対して何をするかという問いに対しては対応できないのだろうと思います。
現在、公共政策の専門職に求められている事は、次の2点ではないかと考えています。
1つは日々変化する社会の状況を感じ取り、新たな知識を吸収する柔軟性を確保することです。そしてもう1つは、自然科学・社会科学双方への理解を踏まえた上で、自ら問いへ向き合うことではないでしょうか。
◇先ほど公共政策大学院の意義のお話もありましたが、本院の今後の活動についてはどの様な考えをお持ちですか。
公共政策大学院の目的は以前から変わるものではなく、公共の場で活躍する専門人材を育てることだと考えています。
京都大学公共政策大学院は設立されて10年以上経過していますが、実際に学び続けられるような専門人材を育てられているのか、確認したい気持ちもあります。
公共政策という分野が固有の学問分野としていかに確立するのかについては、先行して公共政策研究が行われてきたアメリカでも100年以上前から模索されてきました。しかし未だに明確にはなっておらず、この先、確立されることもないと考えています。
私は、変化する社会の中で多彩な分野の知見を活用しながら、簡単な正解の無い問題に向き合う事が公共政策だと考えています。ですから、公共政策が固有の学問分野として確立するかどうかは問題ではないと思います。
よく、公共政策はアートかサイエンスかという問いを立てられることがあります。問いの見方によっては、アートは結果重視で政治家寄り、サイエンスは過程重視で行政官寄りという考え方もできます。しかし、いずれにしても意思決定には責任を伴いますので、エビデンスに立脚することは重要だと考えています。
京都大学公共政策大学院では、難しいけれども解決すべき様々な課題に対し、エビデンスに基づいた政策立案ができるような学生を、引き続き育てていきたいと考えています。
京都大学公共政策大学院では、今年度から嶋田博子教授が新しく着任されました。
嶋田先生は京都大学法学部を卒業後、人事院において様々な政策立案に関わられてきました。そのご経験をもとに、現在は公共政策大学院の学生に対してご指導いただいています。
着任されてから、約半年が経過することを期に、着任されての所感、長く携わられてきた人事行政の中で印象に残る政策立案のお話などについて、お話を伺いました。
嶋田先生のご経歴はこちらのページをご覧ください。
(聞き手: 10期OB松山祐輔)
2019年9月12日掲載
◇着任されて約半年が経過したところでのご感想をお聞かせください。
公共政策大学院の皆様に温かく迎え入れていただき、半年なのにずっと昔からいるような気持ちです。法経第四教室に入ると、学生時代によく座っていた席の辺りに、自然に足が向かっていたりします。
人事院に勤務していた時は、国会対応や法案に関係する業務が多く、ゆっくりする時間がなかなかありませんでしたが、京都大学に着任してからは、時間の使い方の自由度が増し、研究室から眺める夕焼けが素晴らしくきれいだなと感じるなど、豊かな時間を過ごす余裕ができています。
◇担当いただいている講義の内容について教えてください。
前期の講義では「人事行政論」と「CS現代政策と公共哲学」という2つの科目を担当しました。〔CS(Case Study)は、事例研究を行うための少人数クラスで、具体的政策を素材とする事例を取り扱いながら精密な分析と討論を行う科目群。〕
「人事行政論」では、最先端の実務の動きを紹介しつつ、生身の人を扱う分野なので、理屈だけではなく実際の人々の行動に与える効果まで考察できるようになってほしいと思いながら講義を行いました。
「CS現代政策と公共哲学」では、自分がイギリスに留学した際に、それまで仕事や採用試験に関係ないと思っていた哲学の面白さや実生活との結びつきに気づいた経験を伝えたくて、講義に取り入れました。
哲学をいかにして身近に感じてもらうかについて試行錯誤をしましたが、今回は受講生それぞれに特定の哲学者を割り当てることにしました。毎回、個々の現代政策についての発表担当がいますが、他の受講生は割り当てられた哲学者になりきって、その問題に直面した場合にどう考えるかをコメントします。あらかじめ哲学者の思想についてしっかり理解しなければ発言できませんが、さすが京大生、皆さんの事前学習の甲斐もあり、深い議論を行うことができました。一般的な議論だと、“世間的な相場としては、こういう意見だろう”という表層的なまとめ方になりがちですが、各人が自分の価値判断を徹底的に掘り下げるトレーニングができたのではないかと思います。
後期は、「行政官の役割規範」と「CS人事改革分析」を担当します。
「行政官の役割規範」では、これも留学中に言語哲学に触れたことがきっかけで、中立性や専門性を中心に論文を書いているところで、このテキストを授業で使いたいと思っています。これらはとてもあいまいな言葉で、具体的な問題に直面したときに直ちに答えを導きだしてくれるものではありません。判断に迷うような事例に対し、どのように動くべきか、そしてそのとおりに動けるのかを受講生と一緒に考えることができればと思っています。
「CS人事改革分析」では、今年度は働き方改革を取り上げる予定です。民間の働き方改革はどんな意義があるのか、それを公務の現場に応用しようとしたときに、どのような事態が想定されるのか。政策実現に至るまでには多様なステークホルダーが登場してきます。前期のCSと同様に、各ステークホルダーになりきってもらい、それぞれの立場から議論を進めていきたいと思っています。
◇京大公共の学生の印象をお聞かせください。
向上心の強さをとても感じます。「学ぶ意欲と能力がある学生を教えられる」というのが京大に誘っていただいた時の言葉でしたが、その通り、こちらが投げたボールを必ず打ち返してくれる印象があります。
他方で、持っている限られた情報のみを信じて動いている面も感じます。大事に守られた環境で、東京に比べると入ってくる情報量が少ないということが影響しているのかもしれませんが、善意ばかりではない社会に出ていくことを考えると、もっと多角的に情報を取りに行った上で、その情報の精度を見極める能力を養っていく必要性を感じます。
また、京大公共には学部を卒業してすぐ入学した学生だけではなく、いわゆる社会人学生や留学生も多く在籍しています。議論の場では、それぞれの経験がベースとなり貴重な意見が出てくることも多いので、就職を控えている学生にもそうした社会人学生や留学生の見識の深さに触れられる機会を最大限活かして欲しいと思います。
◇印象に残った政策立案についてお聞かせください。
人事院に入って、まず関わった大きな政策が週休二日制です。今では週休二日制は当たり前になりましたが、当時、土曜日は半日勤務が基本でした。国際的な標準に向けた官庁への週休二日制の導入は前向きな改革で、その後民間企業にも広がり、社会全体への波及効果を実感できました。
その後は公務を取り巻く状況に変化が出てくる中で、痛みを伴う改革が続きました。被用者年金一元化のための退職給付調査では、複雑な年金制度を理解するために年金数理(アクチュアリー)の勉強をし、様々なシミュレーションを行いました。精査した客観的な数値結果が政治的な期待とは異なり、厳しい批判を浴びたことで、行政の本来的役割を果たす覚悟ができた気がします。
また、公務員制度改革の中で、人事院の在り方も根幹から問われてきました。人事院は政治から独立した第三者機関として、普段は採用試験や育成、給与勧告など地味な仕事を担ってきた役所ですが、特異な立ち位置の意味を考える上で、政治学や哲学を学んだことがとても有益でした。
近年では、障害者採用に携わりました。学生のころから関心がありましたが、成績主義という公務員法の大原則の中で、どのような方法で障害者の方々に能力を発揮して勤務していただけるのか、厚労省や内閣人事局、内閣官房など省庁を超えて協力しながら議論を重ね、海外の状況や民間の先行事例なども参考にしながら、初めての大規模な障害者選考試験の実施に至りました。不十分もあったと思いますが、世の中のために必要だと信じた方向に一歩踏み出すことができました。
京大公共には、国家公務員を志望している学生が数多くいますが、一口に省庁といっても、それぞれの組織が体現する価値観は様々です。わたしは人事院を希望する気持ちはなかったのですが、結果的に価値観の合う職場に入り、他人がどうであれ自分にとっては本当に大事だと思える仕事に携わることができました。就職活動を控える皆さんも「この省に入りたい」という憧れで止まらずに、自分はどんな社会が実現すると良いと思えるのか、その価値観に合う方向で仕事ができる職場はどこなのかという切り口で、もっと幅広く目を向けるよう願っています。
◇京大公共に在籍する学生に何を学んでほしいかをお聞かせください。
まず、常に新しい分野を勉強し、自分の頭で考える習慣をつけてほしいと思います。公務員の中でも常にアップデートできる人と現状の枠内でしか考えられない人はいて、その差は歴然としています。
元文藝春秋社長の池島信平氏の言葉ですが、「本を読め、人に会え、そして旅をしろ」というものがあります。様々な本を通じて知識を獲得することに加え、最近ではSNS等の発展で実際に会わずともコミュニケーションを取る手段はあり、また、旅をした気分にもなれますが、それでも実際に人に会い、現地に赴くことで得られる価値には勝りません。今思うと、学生時代の自分には人と旅が足りなかった。セレンディピティと言いますが、偶然の出会いを幸運に変えられるのは自分のアンテナの感度です。学部を卒業した後、二年間という時間があるわけですから、皆さんには本・人・旅を通じて今後の人生に向けた感度を磨いてほしいです。
京都大学公共政策大学院では、今年度から岩本武和教授が新しく院長に着任されました。
岩本院長は京都大学交響楽団の音楽部長を務められるなど多彩な経歴をお持ちです。
院長に就任されて約半年が経過したことを期に、院長に着任されての所感、ご専門の国際経済学について、さらに文化芸術に関する話題まで幅広くお話を伺いました。
(聞き手: 松山祐輔(10期)・山科潤子(8期))
2018年9月13日掲載
◇今年度より、新たに院長に着任されての所感をお聞かせください。
院長に着任するにあたって、まず公共政策大学院で何をなすべきか、自分自身で問題を整理しておこうと考えました。当初考えた様にはまだ進める事ができていませんが、現在以下のような取り組みを検討しています。
・ホームページ・パンフレットについて
ホームページやパンフレットなどの広報媒体は部局の対外的な顔であり、受験生の獲得を含めた本院の活動の周知に大きな役割を果たします。しかしながら、現在のホームページはデザインが古く、在籍しておられない教員や卒業した学生の画像が掲載されたままの状態です。また、コンテンツも整理できておらず、非常に分かりにくいものとなっています。同様に大学院紹介パンフレットも長期間にわたり、デザインがほぼ変わっていないため、ホームページと併せて刷新を検討しています。
これらの取り組みを行うにあたっては、予算などの資金が必要になります。リソース確保のためにも、寄附講義の開設にあたって受け入れている寄附金などの有効活用ができるようにしていきたいと考えています。本院には、経済学研究科出身の教員、法学研究科出身の教員、そして実務家出身の教員と3パターンの教員が在籍していますので、会議で多様な意見をいただきながら方向性を決めていきたいと思います。
・国際交流について
本院には現在、海外の協定校がありませんが、今後は協定の締結も視野に入れて交換留学コースを設定し、さしあたりは半期程度で単位互換を認めて学生同士の交流を図ってはどうかと考えています。先日、台湾国立政治大学の国際事務学院(国際関係学部)から公共政策大学院と学術交流協定を締結したいという要請があり、先方から4名の教員と外交担当事務職員が来られました。この大学は蒋介石が南京政府の高官を養成するための大学として設立された大学で、日本の一橋大学や英国のLSE(London school of Economics)等と同様に文系に特化した大学です。
私はこの大学の国際事務学院(国際関係学部)に、国際交流基金からの要請で教えに行ったことがあります。国際関係学部には、日本研究学位課程という修士・博士のプログラムがあり、現在の日本の社会・経済・政治について教育・研究を行っています。国立政治大学が軸とする国際事務学院と社会科学院は、本院で扱う研究領域と近く、社会科学院とは本学の法学研究科・経済学研究科が、すでに学術交流協定を結んでいます。すぐという話ではないかもしれませんが、本大学院の院生の選択肢を広げるという意味で、検討したいと考えています。
◇学部時代に経済学を学んでいない学生も多いですが、国際経済学という分野を通じて何を学んで欲しいですか。
国際経済学に限らず、公共政策大学院で学ぶ院生にとって、経済学のリテラシーというか考え方を修得することは、修了後にどのような選択をするかに関わりなく、重要なことだと考えています。
授業ではクルーグマン他のInternational Economicsというテキストを使用しています。このテキストは、ミクロ・マクロ経済学について、基礎から国際貿易や国際金融まで網羅しているテキストです。
経済学研究科の院生にとっては、このテキストに書かれている理論を数学的に証明したり、それをさらに応用した理論を修得したりすることが大切ですが、公共政策大学院の院生にとっては、このテキストで書かれている理論をどのように政策として生かし、その考え方を使って政策立案を行うことができるかが重要になると思います。
そのため、経済学の理論を前提としながらも、日本・米国・中国等のGDPや国際収支の動向から何が分かるか、またそうした実際の資料を前提にした上での、院生同士でのディスカッションを重視します。また、リカード・モデルやヘクシャー=オリーン・モデルといった理論を使って、なぜ(どのような)自由貿易=国際分業が望ましいか、自由貿易で損害を受ける人々には、保護貿易の方がよいのか、自由貿易を前提とした所得再分配政策が望ましいか、やはり院生同士でディスカッションをしてもらいます。
政策立案にあたっては、経済学で扱う諸変数、例えば「日銀が短期金利を下げた→設備投資や住宅ローンなどの長期金利はどうなるだろう?→為替レートにはどのような影響が?→家計の貯蓄行動には?→…」といったように、一つの政策変数を変化させることが、一国あるいは世界経済に与える影響について、基本的な理論を理解しておく事は非常に重要です。上記の「→」の背景には、厳密な経済理論があるのですが、公共政策大学院の院生には、そうした厳密な理論的背景より、そうした「証明」ぬきに、「ふつうならば働くであろうメカニズム」を沢山知っておくことの方が重要です。その中から、「厳密な理論的背景」をもっと知りたいという知的好奇心に満ちた院生も、もちろん排除はしません。
◇先生は京大交響楽団の音楽部長を務めておられましたが、文化・芸術活動が社会に与える影響には、どのようなものがあるとお考えですか。
まず、音楽部長に就任した経緯をお話ししますと、前任で同じく経済学研究科の教員であった西村周三先生からご相談を頂きました。個人的に音楽が好きな事もあって、お引き受けした次第です。
京大交響楽団は大変大きな組織でして、その中での音楽部長は肩書だけの役職ではありません。楽団では年に2回定期演奏会を開催していますが、その回ごとに、客員指揮者と各演奏パートのトップとの交流を深めるための総勢40名程度の交流会の主催から、もちろん演奏会当日の挨拶と、裏方から表舞台まで様々な仕事がありました。
定期演奏会では毎年、客員指揮者をお願いしているのですが、演奏会をきっかけに今年の創立記念日にもいらっしゃったイリーナ・メジューエワさんとも仲良くしていただく事ができました。
また大変重責かつよい経験となったのは、交響楽団の100周年記念演奏会です。運営にあたって苦労したのが、開催経費の確保でした。卒業生からの基金だけでは不足するため、諸先生方にご相談しながら、堀場製作所など京都の企業に寄附を募りました。堀場製作所は現社長の祖父にあたられる堀場信吉氏が京都大学の教授で、また交響楽団の音楽部長もされておられたというご縁がありました。
これは本学の交響楽団と京都の企業との結びつきの例ですが、私は社会の経済活動と文化には明確な線引きがある訳ではないと考えます。京都には学生とお坊さんが多いとよく言われますが、加えて多いのがベンチャー企業ですね。京都の革新的な企業には、その背景に京の伝統文化との密接な関連があります。例えば京セラでは、日本の清水焼に用いられるセラミックの技術を応用しています。この様に伝統と革新が深く結びついている街が、京都なのではないでしょうか。
◇大学が文化研究活動の重要性を社会に発信していく事について、どうお考えですか。
先日、パーティの席で、堀場製作所の堀場敦社長とお話する機会がありました。そこで堀場氏から「京都大学はこのままでは北京の精華大学に負ける。精華大学は自分自身でマネジメントができている。採用者の中で京大と精華大学出身の学生とを比べると、ディスカッション能力に大きな差がある」とお聞きしました。
民間企業でも同様ですが、切磋琢磨のないところに生産性は生まれないと思います。その意味では今後本学でも、自らの活動の重要性を社会により主張していくような、ある程度の改革は必要だと考えます。
産学連携、もう少し広い概念で言えば、社会連携ということが、今後はもっと大学に求められることになると思います。気を付けなくてはいけないのは、周囲が大学に短期的に役に立つものを求めすぎているという事です。例えば人文科学等の、一見は役に立たないと捉えられがちな分野も許容する場所こそが、京都大学なのではないかと思います。そういった環境を用意することで、初めてよい研究成果が生まれるのではないでしょうか。
◇公共政策大学院の将来について、どうお考えになりますか。
本院は12年前に専門職大学院として始まりました。今までの12年間は、公共政策大学院の実績を作るための期間だったと言えるでしょう。今後は「京都大学公共政策大学院」という組織を持続可能性という観点からも見直し、改善していく局面にあるのではないでしょうか。
そのためには、本大学院が12年の間に培ってきた実績を社会に発信した上で、これまでに本大学院に関心のなかった人たちにも広報し、大げさに言えば公共政策大学院に対する新たな需要を掘り起こす(具体的には、この大学院で研究したいと思う若い人たちを増やす)ことが必要です。幸いにして、本院の卒業生・在学生の実績は非常に優秀です。本院卒業生の主要な進路先は、公務員やその他公共性の高い仕事となっています。特にその中でも国家公務員への就職率は非常に高く、人事院もその実績に着目しているとの事です。また霞が関インターンシップの参加率についても、平成29年度に11名、平成30年度には16名が参加しています。この2ヶ年での参加者の実績は、全国に7校ある公共政策大学院の中でトップです。
このように本院は、小規模の組織体であるにも関わらず、公務員の養成という当初の公共政策大学院の目的に沿った実績を挙げてきたといえます。これらの実績や新しい取り組みを積極的に広報し、対外的な発信を進めていきたいと考えています。
2006年に発足した京都大学公共政策大学院は、昨年度に設立10周年を迎えました。
大学院の立上げに関わられた、現役教員の数少ない一人でもいらっしゃる中西寛院長に、本院への思いとご専門である国際政治学について幅広くお伺いしました。
(聞き手: 山科潤子(8期))
2017年8月30日掲載
◇公共政策大学院の10年
―― 立上げ当初に苦労された事はありましたか。
約10年を振り返って、ようやくここまで来たという思いです。
一つには、小さいサイズでも新しい部局を作るにあたっては大学内や文科省との調整が大変でした。特に当時は専門職大学院という仕組みそのものが新しく、沢山の会議や相談をしました。
京都大学の中でもこの部局は「公共政策連携研究部」と、唯一「連携」という言葉がついています。これは、法学研究科と経済学研究科の連携した運営が基盤となる事を明示しています。従来の枠を超えて相談する事が、各研究科のカルチャーの違いもあって最初は結構大変でしたね。
二つには、実務家の先生を招致する枠組みもまだ新しく、京都の地理的特性もあってよい方をお迎えするのは難しい事でした。立上げの中心となった先生方が交渉に大変尽力されました。当時の実務家教員の方によれば、この様な新しい部局を京大で作る事に、大いに意義を感じてお引受け頂いたとの事です。後に日銀総裁となられた白川先生をはじめ、暗中模索の時に助けて頂いた実務家の先生方には、今でも感謝しています。
―― 現在、その成果についてはどうお考えですか。
かなり上手くいっていると言えるのではないかと思います。特に学生の志望者数や進路先について、発足当初は本当に心配していました。ですが今は、志願者数もそれなりに安定し、進路先もほぼ全ての人が国家・地方公務員、その他公共部門や民間企業等へ就職しているので、組織として一定の成果を出している様に思います。
これには色々な理由があると思いますが、特に本院の特徴として、1学年40名の少人数の中に多様なバックグラウンドを持つ方がいる、珍しい環境があると思います。出身大学や学部にも幅があり、職業人の方が1学年10名程いて、留学生も数名いる事が多いです。そういった中での切磋琢磨や相互刺激が、進むべき進路や世の中への視野の拡大に、大きな効果を与えているのではないかと思いますね。
◇研究者としての一面
―― 国際政治学者となられたきっかけは何でしょうか。
ひとつは、師である高坂正堯先生のゼミを取った時に大きな刺激を受けて、もっと勉強したいと思った事ですね。先生は京大の国際政治学を事実上作った方で、研究者としても人間としても非常に魅力的な方でした。
もう一つですが、私が学部から院に進む頃が、ちょうど1980年代中頃の中曽根政権の時でした。その頃は日本で国際問題への関心が高まった時期でもあり、海外の情報がかなり豊富に入る様になっていました。その中で、日本で議論される国際問題の見方が時代と合わなくなってきており、それを変えられないかという問題意識が自分の中であった様に思います。ですから国際政治という分野で、海外の問題や日本と世界の関係を勉強したいと思い、この進路を選びました。
―― 大学時代はどんな学生でしたか。
ほどほどに勉強して、ほどほどに遊んでいたという感じです。私はESS(English Speaking Society)というサークルに所属していて、ディベートを中心に活動も結構しましたね。海外の情報が日本に入ってくる中で、当時割と新しかった、アメリカで学生の取組むディベートというものを日本でもやろうという機運があり、それにある程度影響を受けました。
英語は高校の頃から好きで、当時FENという、米軍が軍事用に流していた短波ラジオがあって、それを聞きながら受験勉強をしたりしていました。
―― 国際情勢についての所感をお聞かせください。
・ 北朝鮮の軍事問題 (8/29の弾道ミサイル通過を受けて)
北朝鮮の軍事行動に対して、今国際的に制裁が強まっています。しかし北朝鮮がこの程度で従来の方針を変えるとは、多くの専門家は普通考えていません。その意味では今回の事態は想定の範囲内だったと思います。
今回北海道の方向へ向けて、弾道ミサイルを発射した意図はよく分かりませんが、少し前に北朝鮮は短射程のミサイルを打っています。ですので、徐々にミサイルの質をあげてゆき、今後グアムの方向に打つ可能性も示唆する形のデモンストレーションとして打ったのではないかと思います。ともかく北朝鮮としては、あくまで対等な立場で米国と協議したいのだと考えます。ですから国際制裁や米韓の軍事演習の時に、圧迫されて大人しくしている印象は作りたくないのでしょうね。
正直なところ、北朝鮮に対する有効な制裁措置は非常に難しいです。仮に中露が安保理の決議案に同意して石油を止めたとしても、その効果が北朝鮮の政府に影響を及ぼすまでには、かなり長い時間がかかるでしょう。恐らくそれまでに、北朝鮮はより激しい挑発的行動をとって危機をエスカレートする事態となり、日米はその対処を問われ得ると思います。
・ EU体制の今後 (8/31の日英首相会談を前に)
今年のフランスの大統領選挙ではマクロン氏が勝利しました。また9月下旬のドイツ総選挙の結果次第ではありますが、恐らく今の所メルケル氏が4選を果たす見通しです。反EUの動きが支持を得なかったという意味では、去年イギリスがEUの離脱を発表した時のように、EUの体制が崩壊して解体していくといった流れは少し止まって、やや落ち着いたかと思います。
ただそれでEUが安泰かというと決してそうではありません。イギリスのメイ政権は総選挙での敗北が響いており、非常に弱体な状況でEUとの離脱交渉をしないといけないので、それがスムーズにいくかはかなり疑わしいです。またEU内でも特に東欧のポーランドやハンガリーではかなり権威主義的な政権が出てきて、国内での価値を巡る摩擦や対立が依然として存在します。メルケル氏が総選挙で勝利した後、仏独の両国がどの程度リーダーシップをとって、EU内の改革を進めつつ安定させられるかが鍵でしょうね。
・EU諸国と日本の関係性
EUと日本では、7月に自由貿易協定について大枠合意がなされたとの報道がなされましたが、協定の細部を詰めるハードルがかなり高いです。アメリカでトランプ政権が2国間の経済ナショナリズム的な貿易政策を強めているので、日本としてはヨーロッパとの関係を強化して、なるべく多国間での国際政治経済の枠組を維持していく事が重要でしょうね。
また日英の関係は依然として重要であり、イギリス側でも関係の重視を強く歓迎しています。これからイギリス-EU間の離脱交渉がなるべくスムーズに、かつ日本にとってもマイナスにならない形で行われるよう後押しするのが、日本の利益だと思います。
◇公共政策大学院の将来
――本院の今後の課題についてはどうお考えですか。
最初に申し上げた様に、10年少し経ってこの大学院はそれなりの実績を挙げてきたと思うのですが、まだまだ取組むべき課題は沢山あります。
1つは、本大学院の社会的認知度を上げること。もちろん京大の公共政策大学院の知名度を上げることが目標ですが、今全国に7校ある公共政策に関する専門職大学院全体として、認知度を上げていく事が大きな課題と捉えています。
2つには、「公共政策」という枠組みについて議論を深めていくこと。日本の公共政策大学院は、第二次世界大戦後にアメリカでできた「パブリック・ポリシー」という言葉を掲げた大学院を輸入したもので、海外の概念を踏台にして進んできました。
しかし「公共政策」というテーマは、アメリカでも実践的な政策実務を重視した概念でしたから、理論だけでは片づかない曖昧さがあります。日本でも公共政策大学院が定着して、実務や教育の経験もかなり蓄積されてきました。ですから、これからは公共政策とは何か、公共政策の教育・研究とはどういう事かについて、より経験を踏まえて議論すべき段階に来ていると思います。
3つめは、国際的な視野を重視すること。本院は少人数である事もあり、国際的な交流が十分でない事は、学生の要望を含め我々も認識している所です。しかし実際には、予算などの課題も多くあります。国際的視野を持つ事の重要性は間違いないので、様々な形でもう少し基盤を強化した上で、可能な範囲で取組みたいと考えています。
◇鴻鵠会メンバーの方へ
――会員の方々へのメッセージをお願いします。
この大学院を修了した経験を活かして、それぞれの進路先でまず活躍してほしいという事が一番基本のメッセージですが、それに加えていくつかお願いできればと思います。
ひとつは鴻鵠会の存在をできる限り同窓生に広めて、参加を呼びかけてほしい事です。これまで年1回の同窓会が基本でしたが、今後は現役学生や教員も交えた形で、本会の活動を活性化したいと思っています。そういった場に参加頂くのが一番ですが、まずは鴻鵠会の裾野を広げたいので、名簿への連絡先の登録など軽い形でも構いませんので関与願いたいです。
さらに言えば、修了生による自身の社会経験を踏まえた情報共有の機会を増やしたいと考えています。今後修了生の方に現役学生向けにレクチャーして頂く機会も増やしていきたいと思いますので、その様な依頼があれば積極的にお引受け頂ければ幸いです。今年7月には、翁邦雄先生の退官と名誉フェローの授与式を兼ねてシンポジウムを開催し、4名の修了生に仕事を通じた公共政策の課題について、ディスカッションして貰いました。
専門職大学院である本大学院にとっては、やはり実務の場に出た修了生の蓄積が一番の資産です。修了後も長く本院と関わりをもつ事が、ご本人にもメリットになる形にしたいと考えますので、ぜひ末永くお力をお貸し頂きたいと思います。
元日銀「ITオタク」と称される岩下直行先生が語る京大・フィンテック・金融政策
日銀フィンテックセンター創設、初代センター長として采配を振られた岩下直行先生が、4月から京大公共で金融政策の教鞭を取られています。
エコノミストで金融ITのエキスパートという異色のご経歴をお持ちの先生に、京都の印象から金融政策まで幅広く語っていただきました。
(聞き手 祐野恵(8期))
◇歴史好き
―― 京都の印象について尋ねると、岩下先生が手にされたのは1冊の著書「ナゾと推論」。下関支店長時代の地元の歴史に関する寄稿や講演を取りまとめられたものだった。
基本的に、歴史がとても好きなので、京都の街を歩くのはとても好きです。今、知りたいと思っているのは、河原町二条、河原町三条なのに、なぜ「四条河原町」なのかということ。色々聞いてみたら、一説には市電が走っていたときの駅名の名残だとか。他には、四条通りはえらいから、四条河原町なんだという説もあって。だけど、なぜ四条だけが、えらいかわからない。その辺は、掘ればいっぱい出てくると思って楽しみにしています。
それに、京都は、京都を好きな人が集まっている街だと思います。タクシーの運転手さんだろうが、床屋のおじちゃんだろうが、売店のおばちゃんだろうが、ほんとみんなフランクに京都のいいところを教えてくれる。そうすると、僕もフランクになって、東京にいるときはバス停で誰かに話しかけることなんてないのに、京都にいると、見知らぬ観光客にバスの乗り方を教えてあげたくなる。京都には、そういう不思議なものがあるなぁと、思います。
◇京都大学
―― 元日銀のIT司令塔で歴史家、異色の経歴をお持ちの岩下先生の目に京大はどう映るのだろうか。
みんなから、京大は自由だ、自由だという話を聞いていて、実際に赴任すると、確かに(笑)。日銀の金融研究所に勤務していた頃、そこはRMを担当する部署でもあったので、大学との付き合いが多かった。大学の先生方は基本的にどこの大学でも一定自由だけど、その事務方の印象は大学ごとに変わります。例えば、東大は、大学としてブランドを上手に使っていこうと、戦略的に取り組んでいるから、ちょっと窮屈なところもある。それに比べると慶応は、もう少し緩やかだけど、その代わり慶応大学関係者の一体感がとても強い。早稲田は、比較的自由だけど、いろんなビジネスをやっていて、ビジネスに対する思いが強い。
京大は、ブランドはあるけど、それをコントロールしようという意識はあまりない。それぞれが勝手に進めている部分があって、それが良さになっているよね。だから、ノーベル賞も多いのだろうし、独創的な研究者もいらっしゃると思う。その反面、みんなで一斉にある方向へ力を合わせるのは、難しい印象がある。東大がシステマティックに動いているのと比べると、京大は古色蒼然たる学問の府の風合いを残している。大変好ましいと感じますね。
一方で、僕がやってきた、金融、情報、IT、フィンテックという世界は、理念が先行しているわけではなく、ある意味で、お金の力で動いてしまう。どういうことかというと、従来、銀行は、大きなビルを一等地に建てて、3時にはシャッターを下ろして、信用を集めて商売をやってきた。メガバンクのシステムには、大きな資金を投入しているものが幾つもある。ところが、インターネットの普及によって、非常に安く事業を展開できる金融機関が出てきた。大きな資金を次々に投入している人達と、インターネットを使ってタダでできる人達が、競争をしたら、どんなに従来型の銀行の人達が資金力を持ち、かつ一等地に会社を構えて、優秀な人達が携わっていたとしても、やっぱり勝負にならない。フィンテックが注目されている理由は、立派な思想や哲学があるからではなく、安いし儲かるという極めて即物的な理由だよね。それは、京都大学で、それぞれが哲学や理念を持って取り組んでいるのとは、違う原理原則が働いている。だから、フィンテックの拠点として、京都大学は、そんなに適したところでは、もしかしたら無いのかもしれない。
ただ、これからの銀行を変えるのは、変人だと思っています。メガバンクのフィンテック担当者が集まると、これまで銀行一の変わり者だと言われていましたという人ばかり。世の中のメジャーな流れに対して、自分の世界を大事にしている、でも能力は高いから周りと伍してやっていけるという、優秀な変わり者はとっても貴重だよね。そういう意味で、京都大学の教育は、優秀な変わり者を輩出するのに適していると思います。
◇変人
―― 「根底のところで、ちょっと変人」と自ら語る岩下先生に、変人であることの価値とその実践を聞いた。
裸の王様を見て、僕は「王様は裸だ」と言っちゃう方。その方が、精神的なストレスが無くなる。そして言ってしまうと、どうすべきなのかという、ある種の責任が発生する。そこに、変人である価値が存在して、かつ、それを実践しようとしてきたんだよね。
例えば、日銀の支店長会議。支店長会議の原稿は、紙に作って、それを読みます。でも、前の支店長の発言を受けて書き換えたいときがある。発言の持ち時間が決まっていて、図表は使えないという制限があるなかで対応しようとすると、パソコンを持ち込んで、文字数を合わせて、最適なものを作り上げて、読んだ方がいいなと思った。そこで、パソコンを支店長会議の席に持ち込んで、その画面を見ながらスピーチをしたわけですね。それは、未だに、僕一人で、空前絶後。マスコミが大きく報道することもある支店長会議で、紙の資料しか机の上に置いてないのが普通で、そこにパソコンを置くって言うこと自体がある種勇気のいることだったけど、そんなことを誰かが最初にやらないと変わらないと思って。
それに、デジタルプレゼンも。1994年に、ニューヨーク連邦準備銀行に研修に行ったとき、アメリカではちょうどパワーポイントが流行り始めた頃だった。OHPやプロジェクターを持ってきて、誰もがデジタルプレゼンを一生懸命やっていた。ところが、日本に戻ってきて、デジタルプレゼンをやりたいというと、みんな口をそろえて、プレゼンテーションは中身で勝負するものだ、そんな見た目で勝とうと思っちゃいけない、って言うわけよ。デジタルプレゼンなんて、けしからん、あれはデジタル紙芝居で、あたかも立派な仕事をしたかのように見せるなんて、その精神がもう許せない、と口々に。やってみましょうと一生懸命説得したけど、誰も乗ってくれない。仕方ないから、30万円ぐらいのプロジェクターを自分で買って、スライドを作って、必死にやった。そしたら、だんだんと、僕のところに貸して欲しいという注文が殺到するようになって、それで普及したことがあった。僕としては、出来るだけアーリーアダプターであろうとしたわけです。
でも、アーリーアダプターだから、たぶん、非常に多くの無駄もしています。早物買いで、値段の高いものを買って、例えば、DVDレコーダーはすぐに故障して動かなくなった。それでも、最初に世に出たデジカメのカシオのQV10は自宅にあって、初期のiPhoneと一緒に博物館のように飾っている。もちろん、もう全く動かないけど、今の時代を作ったんだなと思って。そういうものによって、世の中が変わっていくときの、変わっていくことを推進する側になりたいって、いつも思ってきました。
◇フィンテックまでの歩み
―― 変化を推進してきた岩下先生が立ち上げた日銀のフィンテックセンター。立ち上げまでの歩みを聞いた。
どの時期のインターネットに接したかで、その人の人生は変わると思っている。インターネットを推進する側であった人というのは、村井純さんをはじめ、みんな、手弁当で携わっていた。だから、そんなものだと僕も思ってきた。村井純さん、亡くなった山口英さん達と話していたのは、これからインターネットのセキュリティ問題は色々出てくる、犯罪に使われたり、人が死んだりという可能性もあって、そうなったら、インターネットを普及させた俺たちが悪いと言われる、だったら、そのつもりでやろうということ。将来、自分達が責められるのを前提に、どうやったら、その責めを少なくできるか一緒に考えようとインターネット仲間で言い合っていた。それは理不尽だけど、理不尽だと言うと、インターネットなんてやらないとなるから。理不尽なのは仕方ない、そこは諦めてその代わり、一生懸命、対策やろう、政府を巻き込んでいこうと話していた。奈良先端科学技術大学の教授だった山口英さんは、昨年の5月に他界したけど、彼がいたから日本のインターネットは動いて、日本の銀行のセキュリティ対策は向上した。一緒にできたことを僕はとても誇りに思っています。
こうした経験があって、金融の世界でも同じように、セキュリティ対策をやりましょうと研究の一環として言えた。それが、今のフィンテックやブロックチェーンに繋がっている。だから、僕自身はフィンテックを推進する立場というより、フィンテックの結果、生じるだろう問題の対策を考える立場にあった。どっちかというブレーキ役だったよね。
同じことが、プライバシー保護についても言える。ビッグデータを利用するとき、データが不用意に利用されると、TUTAYA図書館のように、みんなすごく嫌がるから、納得づくで、データを使うためにはどうすればいいだろうと当時考えていた。それを色んな中に組み込んでもらうことをやってきたけど、そうすると、どちらかというと、イノベーションを止める役回りになっていた。
その結果、セキュリティを守らなくちゃいけない、プライバシーを守らなくちゃいけない、だから、インターネットは使わない、個人情報は預からない、という方向に金融機関がどんどんシフトしてしまったよね。それは世の中のトレンドと違う。そこで、ITの問題点の解決策は見つけてあるから、金融をより活性化させる手段としてどう使うのか、もっとプロモートしなくちゃだめだと思うようになった。だから、ここ4年ぐらい、セキュリティの専門家であることは敢えて忘れている。
実は、4年ほど前に、世の中と金融のITのギャップを相当まずいと感じた。それを感じたのは、日立に出向して戻ってきたとき。しばらく、金融のITの世界から遠ざかっていて、その間にITはこれほど進んだのに、金融は何で進んでいないの、っていうのが僕にとってはすごいショックで、それでなんとかしなきゃいけないと。それで、日本再考戦略にフィンテック的なことを書いてもらったのが2015年だった。
◇フィンテックセンターの立ち上げ
―― ブレーキ役からプロモートへ。フィンテックセンターの稼働。
日銀には、銀行、信用金庫、証券合わせて、取引している会社が500社ほどある。その社員の考えは、すごく均質。まるで、大日本銀行というコマーシャルバンクに、それぞれ支店があるように。そこには競争もなければイノベーションもなくて、成長もない。その結果、儲からない。銀行は、これまで規制のもとで、一定のレントを得てきたので、そのレントを使って、一等地に支店を置いて、3時に閉めて、巨大なデータセンタで巨大なコンピューターを使うことが許されてきた。だけど、そのレントが少なくなってきた。その一方で、インターネットを使った、フィンテックが登場して、これまで通りのことをやっていたら、とても生き残れない。その認識を、各金融機関に持ってもらわないといけなくて、働きかけをしたら、前と比べるとね、金融機関の反応は非常に良かった。
それで、ちょうど1年前の4月に、日銀のフィンテックセンターというのをつくったんですね。それまでは、金融高度化センターという別のセンターの長をやっていたので、フィンテックセンター長を兼務することになった。高度化センター長兼フィンテックセンター長という、日銀らしからぬ、肩書きがいっぱいついた名刺を持って。驚いたことに、フィンテックセンター長になったとたん、マスコミの取り上げ方がすごく変わった。日銀がフィンテックに対して、新しい組織までつくって対応している、本気だというのが伝わったらしい。
それから、暗号のPh.D.を持つ人を異動してもらったり、金融のITのエキスパートを採ったり、それなりの規模にしたわけね。さらに、日銀にある3つのセンターの長をフィンテックセンターの兼務者にしたの。そうすると、その3つのセンターを、全部合わせると30人ぐらいになって。30人のフィンテック部隊がいるんですよって言ったら、世界中の中央銀行のどこよりも強いのね。
他にも、日銀は暗号のPh.D.を持っている博士号取得者が4人いる。これは、フィンテックセンターの前に、情報技術センターをつくろうとしたとき、暗号のPh.D.をたくさん雇いましょう、といってすごく反対されたんだけど、そのときに何とか3人、翌年1人確保できた。暗号の博士号を持っている人が合計で4人いる中央銀行は、世界中見渡してもない。そういう意味では、フィンテックで、中央銀行デジタル化とか、現金を無くして、デジタル的なものにだんだんと変えて行きましょうっていうときに、まさに必要な人材を、確保することができた。これは、日本銀行に多少は残してあげられた一種の遺産だと思うから、おおいに使って欲しいなって思っているね。やっぱり人材が大事ですよね。
◇金融政策と地方
―― アベノミクスによる株価上昇の反面、景況感の改善しない地方。今後、地方はどう対応すべきか尋ねた。
地方の経済を考えるとき、中央との情報の格差とか、スピードの差というのは無くなってきているはずなんだよね。インターネットが広く普及した世界では、東京である必要は無くて、どこに金融機関が基地を置こうと、大企業が本社を置こうと、地方で取引をやって、自由にネット上で様々な製品を協議して、作っていくことかできるはず。そういう意味では、地方の過密過疎の問題から自由になる武器は手に入れている。
一方で、みんな、東京になびくわけじゃない。それは、人口が減る中で、従来と比べて儲かる土地というのが、例えば不動産の値段が上がりそうなところ、賃料が上がりそうなところは、都心とその周辺しかない。そいうことを踏まえて、再アロケーションが必要になってきているよね。これまでずっと低金利、ゼロ金利の元で沈静化していた、いろんな問題がポジティブな金利が付いたとたんに、やっぱり、これはまずいよねというのが色々出てくる。
例えば、地方の都市の不動産価格というのは、実態価格としてはもっと下がらないといけないけど、取引をしないことで公示地価が高くなっている実態がある。それは、どこかで調整されないとおかしい。そういう意味では、長い期間、調整されなかったことを調整する、その結果として既得権益者に対してショックが起こるのは、しょうがないことだと思う。
フィンテックというのは、金融という比較的均質的な人達が、一斉に、これまでの金融じゃまずいということに気が付いて、その結果、大ブームになったわけだけど、同じようなことは、これからいろんなところで起こってくる。これまでの金融緩和や中小企業に対する金融円滑化など、特別な状況から自然なところに戻ったとたんに。そして、巻き戻るばねっていうのは、当然あるんだから、それに備えておくことが必要だよね。
金融政策の話をするときには、原理原則の話ばっかりして、今の話題は取り上げないんだけど、それはしても仕方がないから。その基本になっている考え方をいかに身に着けていくかによって、次の変化に対応できるような人を、人材を育てていく必要があると思っています。できればそれは京都大学なんだから、ちょっと変人でいて欲しいなっていう感じがするんですね。
おもろチャレンジ採択学生インタビュー
京都大学の体験型海外渡航支援制度「おもろチャレンジ」に、公共政策大学院12期生の磯貝茉莉衣さんの活動計画が採択されました。
テーマである「茶文化の伝播者として、茶の聖地をめぐる?文化行政の研究」に沿って、実際に中国・台湾へ渡航され、活動をされた感想をお伺いしました。
(聞き手:松山祐輔(10期)、山科潤子(8期))
◇中国茶について
中国茶に興味を持ったきっかけは何でしょうか?
きっかけを特定するのは少し難しいですね…初めから「中国茶」という存在を意識はしていなかったと思います。歴史への興味や、健康への興味、中国への興味等が合わさって、現在は中国茶に興味をもっているという感じです。時期で分けると、「茶」に興味を持ったのは幼少期から、「中国茶」との出会いは中学生の時、「中国茶」を深く学んでいこうと決めたのが大学生の時です。
「茶」に興味を持ったきっかけは歴史への関心からです。私は、幼い頃から歴史を学ぶのが好きで、小学生の時に初めて学んだ世界史の事件が阿片戦争でした。ちょうど、日本の幕末や明治維新の歴史と一緒に教わったのです。阿片戦争は、その歴史的背景(清産の茶を大量に輸入していた英国が、自国からの銀の流出を食い止めるため、インド産の阿片を清に密輸出した過程で勃発したこと)や歴史的意義(西洋の掲げる国際法秩序と清国が維持しようとする華夷秩序の衝突)から近現代史上で重要な史実の一つですが、当時の私は、衰弱した阿片吸飲者たちの脱力感と倦怠感に満ちた様子に胸を痛めると同時に、「茶」が戦争を誘引するほど重要な貿易品であったということに衝撃を受けました。というのも、お茶は、日本人である私にとってはとても身近なものですから、“お茶をめぐって戦争までする?”と疑問を抱かないわけにはいきませんでした。このように、世界史を学び始めた時から、歴史の流れを掴む上で「茶」を始めとする各国の飲食事情を知ることが非常に重要であると考えていましたね。
中学生になると、健康維持の観点から「中国茶」を日常的に飲むようになりました。中学時代、私はクラシックバレエの稽古にほぼ毎日通っていて、体調管理は重要な課題でした。当時、バレエに適した細長い身体づくりのために、私は少し無茶な食事制限をしていたこともありました。しかし、健康ブームの中で“脂を流してくれるお茶!”として取り上げられていた普洱茶(プーアル茶)を飲むようになってから、バランスよく食事を摂ることが出来るようになりました。普洱茶は今でもよく飲みますが、この時が「中国茶」らしい中国茶との初めての出会いだったと思います。
そして、大学生の頃、中国への理解を深めるために「中国茶」を勉強し始めました。科目として中国語を履修していたので、中国の文化に興味を持つことで語学学習にも良い影響があるのではないかと考えたからです。漢詩や二胡など色々なものに挑戦したりしましたが、私には中国茶が一番効果的でした。中国茶を学ぶ以前、中国に対してのイメージは、環境汚染や贋物生産王国といった悪いイメージが強かったのですが、中国茶の理解を深める中で、“広大な土地と多種多様な地域性を持った歴史文化大国・中国”の姿を知り、その魅力にどんどん惹かれていきましたね。実際、中国政府も、近年の経済成長を土台として伝統文化の発掘・活用に力を入れているので、中国茶を通して中国国内の様々な取組みに関心を持つことが出来ていると感じます。
日本茶との違いを踏まえて、中国茶の特徴を教えて下さい。
中国茶も日本茶も奥が深く、まだまだ勉強不足なのですが、現段階で答えることのできる範囲で答えさせていただくと…日本茶と比べると、中国茶の特徴は“多種多様”なことで、個人的には中国茶の“変革への挑戦”と“生命を感じさせる茶葉”が非常に面白いと感じます。
日本では、一般的に茶といえば蒸した緑茶やほうじ茶・玄米茶等の分類に分けられ、いくつかの品種が存在するとされますが、中国には日本の数十・数百倍の品種の茶が存在し、茶の種類は数万に及ぶと言われています。中国茶は、大きく六大茶類に分かれていて、一生産量の多い緑茶、烏龍茶に代表される青茶、その他には白茶、黄茶、普洱茶などの黒茶、そして紅茶など、製法の違いによってバラエティに富んでいるのが特徴です。例えば、青茶の中の一つの種類である武夷岩茶だけでも、500種類以上で、年々増加中!であるそうです。
そして、中国茶は、茶自体の普遍性を考慮しつつも、革新的な試みがなされている印象が強く、私にはこの動きがとても面白く感じます。中国茶は、「色、香、味、形」の大きく四つの評価基準で判断するのですが、多くの生産者がそれぞれの基準で良い評価を獲得しようと様々な工夫を凝らしています。例えば、今までふわっと仕上げていた茶葉を扁平形に変形してみたり、伝統的に強めの焙煎で仕上げていた茶葉を軽い焙煎で仕上げてみたりと、新たな挑戦が次々になされています。また、最近では、まだ青い蜜柑の皮の中に普洱茶の茶葉を詰めた「小青柑普洱」が人気になっていて、新たな需要を起こすための工夫も行われているようです。同じ生産者の作った同じ名前の茶であっても、数年前と全く味や形が異なるという場合もあるので、中国茶の新しい動きに目が離せなくなります。
また、中国茶の茶葉からは“生命”を感じさせられるので、その点も面白いと感じます。日本茶では、抹茶に代表されるように、茶葉を裁断したり崩したりすることが前提とされますが、中国茶は、茶葉本来の形を維持させながら加工を行うことが多いです。例えば、“花が咲く茶”として有名な「工芸茶」も、中国茶の中の一つですね。中国茶は、茶葉の状態では乾燥していますが、湯に入れることで茶葉本来の形が蘇るので、今まで眠っていたものが覚めていくような…そうした生命の素晴らしさに感動します。そして、生命力ある茶葉をいただくことで、自分が人間として、自然からの恵みを受けながら生きていることに気付かされますね。私にとって、茶を飲むという日常の行為は、自然に触れることのできるリフレッシュの時間にもなっています。
ただ、以上のような特徴や面白さは、中国茶だけにも限らないかもしれません。近年は、日本茶の世界でも、和紅茶生産やスタイリッシュな淹れ方の研究など様々な変化がありますし、日本茶の茶葉本来の性質を生かそうとする試みも多いと聞くので、茶業界全体に新しい風が吹いているということかもしれません。
茶葉コレクション・多様な茶葉
◇今回の渡航について
今回の渡航テーマは文化行政ということですが、中国茶と行政との関係はどの様なものでしょうか?
今でこそ中国茶は六大茶類として整理されていますが、これが整理されたのは改革開放の時期で、神農伝説から始まる中国茶4700年の歴史からすると、本当につい最近のことであると分かります。各地域において各々の製法で茶が飲用されてきたようですが、政府が分類を進めることによって、分かりやすく体系化されたという事情があり、こうしたところにも文化と行政との結節点を見ることができます。
また、中国茶の勉強をしたいと思えば、外国人であっても、中国政府公認の資格を取得するという方法で勉強をすることが出来ます。私自身もこの資格取得を通して中国茶を学び、現在は二つの資格を持っています。中国茶は、とにかく種類がとても多いので、学んでいくうちに途方に暮れることもあるのですが…このように、政府の管理のもとで中国茶が制度として整備されていることは、中国茶の理解を促進させるための大きな助けになっていると思います。ただ、制度があるだけでは広まらないので、中国茶の楽しさや面白さを伝えてくれる方々が多くいらっしゃるということも、とても重要だと思います。
―渡航先ではどのような調査をしましたか?
今回の渡航では、中国(広州、成都、上海、杭州)・台湾(台北)の五都市を回り、それぞれの地域での茶市場の動向調査と、博物館などの公共施設をはじめ、茶藝館や飲食店など茶を扱っている場所での茶の存在の捉え方・活用の仕方に関しての調査等を行いました。やはり一番思い出深いのは、茶市場の調査ですね。中国の茶市場は非常に大きく、一か所に千以上の店舗が集まっている市場もあるため、とにかく歩き、何杯もの茶を飲ませていただき、ひたすらお茶に関する話で盛り上がる…という夢のような時間を過ごしました。
―中国茶の茶市場とはどのようなものですか?
中国茶の茶市場は、基本的には茶葉の卸売のお店が集まっているところで、茶葉に加えて茶器や茶関連の家具などが入っている場合もあります。茶市場の規模はそれぞれで異なり、数十ほどのところもあれば、数千ほどお店が集まっているところもあり、お店によっては個人客も受け入れてくれます。
日本茶では、市場に出るまでに、茶師の方々が茶の出来具合を吟味して合組(ブレンド)をするという段階をふむことがありますが、こうした慣習は中国茶ではあまり見られません。そのため、中国茶を購入する際は、試飲をしながら決めるというのが主流です。中国茶の価格は千差万別で、かつ、有名なあるいは高価な茶葉であるから美味しいという関係が必ずしも成り立つわけではありません。(そもそも、美味しいという感覚自体に一定の基準を設けるのは難しいのですが、)品質の高さに関しても名前や価格だけでは判断できないことが多いですね。
そうなると今度は店側が客を判断して、どのランクの茶葉を試飲として提供するかを検討する余地が生まれます。今回、私は事前アポもなく、学生であることを名乗った上で訪問していましたので、最初は最高級の茶葉の試飲をお願いしても提供してもらえませんでしたが、自分の好みや中国茶への思いを伝えることで、最終的には、良質な茶葉も含め幅広い種類の茶葉を試飲させていただけました。
具体的にはどのように試飲するのですか
お茶の種類によって試飲の仕方も異なります。緑茶であれば、グラスの中に茶葉と湯を入れてもらい、そのまま飲むことが多いです。また、烏龍茶等のような香りが高くでる茶を飲む際には、下のような聞香杯と茶杯をセットで使うことが多いです。まずは縦長の聞香杯に注いだ後、茶杯にうつします。そうすることで、聞香杯に香りが残り、茶の香りを楽しみます。その後、茶杯のお茶を飲んで味を確かめます。
(広州にて)小青柑普洱茶の試飲
(上海にて)緑茶の試飲・生命力ある茶葉
◇今回の渡航について
今回の渡航テーマは文化行政ということですが、中国茶と行政との関係はどの様なものでしょうか?
今でこそ中国茶は六大茶類として整理されていますが、これが整理されたのは改革開放の時期で、神農伝説から始まる中国茶4700年の歴史からすると、本当につい最近のことであると分かります。各地域において各々の製法で茶が飲用されてきたようですが、政府が分類を進めることによって、分かりやすく体系化されたという事情があり、こうしたところにも文化と行政との結節点を見ることができます。
また、中国茶の勉強をしたいと思えば、外国人であっても、中国政府公認の資格を取得するという方法で勉強をすることが出来ます。私自身もこの資格取得を通して中国茶を学び、現在は二つの資格を持っています。中国茶は、とにかく種類がとても多いので、学んでいくうちに途方に暮れることもあるのですが…このように、政府の管理のもとで中国茶が制度として整備されていることは、中国茶の理解を促進させるための大きな助けになっていると思います。ただ、制度があるだけでは広まらないので、中国茶の楽しさや面白さを伝えてくれる方々が多くいらっしゃるということも、とても重要だと思います。
―渡航先ではどのような調査をしましたか?
今回の渡航では、中国(広州、成都、上海、杭州)・台湾(台北)の五都市を回り、それぞれの地域での茶市場の動向調査と、博物館などの公共施設をはじめ、茶藝館や飲食店など茶を扱っている場所での茶の存在の捉え方・活用の仕方に関しての調査等を行いました。やはり一番思い出深いのは、茶市場の調査ですね。中国の茶市場は非常に大きく、一か所に千以上の店舗が集まっている市場もあるため、とにかく歩き、何杯もの茶を飲ませていただき、ひたすらお茶に関する話で盛り上がる…という夢のような時間を過ごしました。
―中国茶の茶市場とはどのようなものですか?
中国茶の茶市場は、基本的には茶葉の卸売のお店が集まっているところで、茶葉に加えて茶器や茶関連の家具などが入っている場合もあります。茶市場の規模はそれぞれで異なり、数十ほどのところもあれば、数千ほどお店が集まっているところもあり、お店によっては個人客も受け入れてくれます。
日本茶では、市場に出るまでに、茶師の方々が茶の出来具合を吟味して合組(ブレンド)をするという段階をふむことがありますが、こうした慣習は中国茶ではあまり見られません。そのため、中国茶を購入する際は、試飲をしながら決めるというのが主流です。中国茶の価格は千差万別で、かつ、有名なあるいは高価な茶葉であるから美味しいという関係が必ずしも成り立つわけではありません。(そもそも、美味しいという感覚自体に一定の基準を設けるのは難しいのですが、)品質の高さに関しても名前や価格だけでは判断できないことが多いですね。
そうなると今度は店側が客を判断して、どのランクの茶葉を試飲として提供するかを検討する余地が生まれます。今回、私は事前アポもなく、学生であることを名乗った上で訪問していましたので、最初は最高級の茶葉の試飲をお願いしても提供してもらえませんでしたが、自分の好みや中国茶への思いを伝えることで、最終的には、良質な茶葉も含め幅広い種類の茶葉を試飲させていただけました。
具体的にはどのように試飲するのですか
お茶の種類によって試飲の仕方も異なります。緑茶であれば、グラスの中に茶葉と湯を入れてもらい、そのまま飲むことが多いです。また、烏龍茶等のような香りが高くでる茶を飲む際には、下のような聞香杯と茶杯をセットで使うことが多いです。まずは縦長の聞香杯に注いだ後、茶杯にうつします。そうすることで、聞香杯に香りが残り、茶の香りを楽しみます。その後、茶杯のお茶を飲んで味を確かめます。
―茶を巡る文化の違いについてはどのように感じましたか?
今回渡航した各都市では、もちろん全てに共通して茶が文化的役割を持っていたのですが、それぞれ別の目的で茶が飲まれているように見えました。以下の認識はあくまで個人的な捉え方ですが、上海では「ファッション」の一形態として茶が飲まれ、広州では「食」の延長として、成都では「生活」の一部分として、台北では「伝統文化」として茶が飲まれていると感じました。特徴的な点を挙げるなら、上海では工芸茶を扱った茶藝館が多く、広州では消化促進のための茶の需要が高く、成都では水筒保有率が最も高く、台北では観光客対応が可能なお茶屋さんがほとんどだった、というような特徴がありました。この経験から、「茶文化」といっても様々なアプローチがあると感じましたね。
(台湾にて)文山包種茶の試飲・茶水が入っているのが聞香杯
(成都にて)屋外の茶座で茶を楽しむ人たち、ゆっくりとした時間が流れる憩いの場
◇公共政策大学院での学びについて
公共政策大学院に来られた動機と感じられる特徴についてお聞かせください。
大学院進学の動機は、自分の日本人としての基盤を固めるため、ですかね…。私は、学部時代は違う大学で国際法を学んでいました。その中で、国際社会では同じ規範を掲げて共存する努力をしつつも、各国ごとに異なる問題を抱えているという現状を知り、将来は価値観の異なる人々や社会を相手に仕事ができたらと思うようになりました。しかし、このように国際社会で働きたいと思う一方で、学部卒業までずっと東京に住んでいたこともあり、日本全体について何も知らないなという感覚が強くなりました。なので、学びの拠点を京都に移し、学部時代に勉強していた国際法と共に、地方政治等についても学習しようと考え、京都大学の公共政策大学院を進路に決めました。
本大学院は規模が小さいこともあり、CS(ケーススタディ型講義)を始め、少人数の講義が多いので、教員の先生方や学生と近い距離で自然に議論をできることがとても刺激になっていますね。また、公共政策大学院の特徴の一つでもある学生による自主活動では「長浜まちづくり」に関する調査・研究を行っています。今回の渡航においても中国・台湾の各都市を見て回る中で、まちづくりや観光という観点で長浜の街と比較しながら渡航することができました。公共政策を学んだ後の社会への出口は幅広く、学生の興味も様々です。そんな中での自主活動という仕組みは、学生の探究心の受け皿として良い仕組みだと思います。また、京都大学は今回の「おもろチャレンジ」を始め、留学・渡航に関する制度も充実していて、その点も非常にありがたいと感じています。
本大学院での学びを通じてどんな社会人になりたいですか?
本大学院では、「自分が社会のために何ができるのか」といった公共性を意識しつつ、日々学び続けようとしている多くの方々と出会うことができ、私自身も今後このような意識を常に持ちながら生きていきたいと考えています。また、今回の「おもろチャレンジ」も含め、大学院では、日本や世界の様々な地域に実際に足を運び、現地の人と接し、そこから情報を得て検討する、といった経験を多く積ませていただきました。この経験から、頭で考えることに加えて、現場から学ぶ重要性にも気づかされたので、このことに常に気を付けながら、世界中の至る所で必要とされる人間になっていきたいです。